MISAKI SATO

               


              この人生を通して



 考えてみると、私の願いはずっと「なんとか2度とこの世界に生きなくて済むようにならないか」ということだったように思います。この人生を通してそのことに打ち込みながら、絵を描いてきたといえます。





 私はごく普通の家庭に育ち、ごく普通に気の合う友人と出会い、“絵”という好きなことを見つけたのも小学生の頃と比較的早く、特にこれといった悩みもありませんでした。

 けれども高校生活を送っていたある日、全く予想もしない疑問が突然心に落ちてきたのです。

「人は何の為にこうして生きているの?」
「死んで全てが終わるとは思えない…仮にそうだとしたら何故わざわざ生きているの?」
「何かがおかしい、神様なんているのか知らないけれど、なぜ私はこんなに神様から遠く離れてしまったように感じているのかしら」と。

 これは絶望と言えるものでした。
 気がつくと、確かにそこにはほとんど固体のように感じられる苦しみがありました。

 世界が何故このようになっているのかわからず、その答えをどう見出せば良いのかわからないのだから、それは相当な一大事…ふいにそのまま底なし沼に落ちて行きそうになりましたが、絵を描くことで持ちこたえ、大学に入る頃にはなんとか落ち着きを取り戻しました。
それはひとえに高校の学業・クラブ活動のダンスに加え、美大受験に向けたデッサン・油彩画の猛特訓という超多忙な日々のおかげと言えるでしょう。

 美大に入ると好んで友人と共にいろいろなことをじっくりと考える時間を過ごすようになりました。
時には交換ノートなどを使って”自分とは何か”を探求したりもしたものです。真剣でした。

 ですが結局、
「自分というのは体ではないようだけれど、仮に意識だとしてもそれはこの世界で憶えたことや感じたことでできているようだ。憶えたこととはそもそも一体何なのだろう…意識とは何なのだろう。ということは、私はなんだかわからない外側のものでできているということになるの? そんなことで私は私を私と言えるの!?」…ということで完全にお手上げでした。

 その後十数年、答えを探しているのか、正しい方向を探せているのか、はたまた探したところで見つかるのか全くもって分からない年月を重ねることになります。
様々な分野の本を読み、絵におけるより高いインスピレーションを求め、食事を菜食に変え、断食をし、瞑想をし… そうこうしているうちに、そのさ迷いぶりを見兼ねたのか、ある時ふとこんな質問が心に浮かんできました。

「あなたにとってこの地球上で最も美しい生き方をしている人は誰?」

 まずはその人を過去の聖人に定め、パラマハンサ・ヨガナンダ、聖者の中でも最上級といわれるラマナ・マハルシ、ブッダ、イエス…世界の多くの人が認める聖者と呼ばれる人達の本を読んでいきました。最終的に宗教組織にはどうしても興味を持てず、私が行き着いたのは「奇跡講座」(A Course in Miracles、ヘレン・シャックマン著 中央アート出版社)や「神の使者」(The Disappearance Of the Universe、ゲイリー・R.レナード著、河出書房新社)などの純粋な一元論の教えの書かれた自学自習の本でした。
これは高校の絶望から17-8年後のことで、1日でも早く真実を知りたい私にとって、奇跡講座の難解な文章に向かうことは、まるでスローモーションのように、ノロノロとしてもどかしく、大変な抵抗感がありました。ゲイリーレナードさんの本がなければ挫折していたと思います。

 このような有様ですが、本や導きに小指でどうにか引っかかり霧がゆっくりと晴れるように最悪な状態からは少しずつ這い出てきたように思います。

 聖賢方の教えの行き着くところは「神は在る、その他のものは何もない」ということなのかと、「何も起こらなかった、分離は起こらなかった、神はこの世界を作っていない、知覚する全ては存在さえしたことのない夢のようなものなのだ」「心の訓練によって自我を解体し真実を思い出すことができるのだ」と、20年間の「なんなんだ?」が「そうなのか…」とひとまず得心がいったのです。

聖賢方の本で読んだ”現象の世界に幸せなどあった試しはない”というのも、“世界に苦しみはない”というのも、どちらも真実だったのだと理解しました。




 今も、難解な文章でありながらシェイクスピアのように美しい形而上学の最高傑作「奇跡講座」を染み込ませる努力をしながら日々学んでいます。
その純粋な一元論の教えはシンプルでも、実践はとてもとても難しい。
自我という相手はなかなかに曲者ですし、長い道のりに圧倒されますが、それでもここに寛ぎたいとも思うのです。
誰もが皆すでに終わっている旅の中なのですから。
いえ、旅をしたことさえないというのですから。

「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなの です。」
上村松園の言葉です。
”絵に感化されて邪念が清められる”との理想をお持ちだったと読んだことがあります。ひれ伏す思いです。

先人の輝く姿勢を胸に、どうか少しでも澄み清まってゆきたいものです。
 祈りの中で絵に向かい神と共にあることで。


                                               佐藤美沙紀